―足への執着―

マゾヒストにも様々な趣味嗜好があります。しかし、が好きでない人はなかなかいないのではないでしょうか。美しい女性の足は、舐めて良し、蹴られて良し、踏まれても良しと、非常にポピュラーな願望と直結します。沼正三も、足への執着を、スクビズムの第二類型として挙げています。

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ではなぜ、マゾヒストは足が好きなのでしょうか。それは、足が人間の肉体の中で最も下部に位置し、最も卑しいと認識されている部位だからです。

マゾヒストが対象女性の足に執着しているとき、踝より上の部位に関心がないかかというと、そうではありません。どんなに足が美しくても、顔が醜くい女性の前には決して跪きません。マゾヒストは対象女性に完全無欠の美を求めます。対象女性の顔、髪、項、胸、胴、腰、手、全てを崇拝し、その美に異常なほど執着しています。もっと近づきたい、触れたい、舐めたい…しかしそれらの部位は、あまりにも高貴過ぎて、卑しい自分が触れたり舐めたりして汚すことがためらわれます。強力に引き付ける魅力と、近づくことすら拒むような気品に、恋心は引き裂かれます。そこで、唯一卑しい自分でも接触を許される部位、それが足なのです。

マゾヒストは足を愛し、崇拝することで、対象女性の完全無欠な肉体美を実感することができます。足ですらこんなに高貴で美しく、白く清らかで、滑らかで柔らかく、甘酸っぱいいい匂いがするのだから、この人はもう全身完璧な美しさを備えた女神様なのだと。

さて、谷崎潤一郎はというと、やっぱり足が大大大大大好きです。処女作『刺青』から、晩年の『瘋癲老人日記』に至るまで、生涯にわたり、美しい足への賛辞を送り続けます。

ここではその膨大な足賛辞の中から、大正八年に発表された『富美子の足』を紹介します。これを紹介すれば、谷崎の足への執着がいかほどのものか、十分わかっていただけると思います。

  ―足を愛した老人、足に恋した青年―

『富美子の足』は野田宇之吉という美術学校の学生が「谷崎先生」に宛てた手紙で、自らの体験を語るという形式をとります。(谷崎はよほど自分を小説の中に出すのが好きなようですね。とうとう実名で登場です。)

宇之吉は、田舎から上京し、遠い親戚で、日本橋に質屋を構える塚越という老人の世話になります。その塚越の妾が富美子(ふみこ、おそらくは「踏み子」から来ている)です。芸者をしていた富美子を塚越が妾にし、家に住まわせているのです。宇之吉はすぐに富美子の美しさに夢中になってしまいます。ちなみにこのとき塚越は六十一歳、富美子は十七歳、宇之吉は十九歳です。

塚越は宇之吉に、富美子をモデルに絵を描くよう頼みます。宇之吉はポーズをとった富美子を舐めるように描写していきます。そしてその描写は、ある部位にきてクライマックスを迎えます。文庫本六ページに渡る、狂気すら感じる執拗な描写と賛辞ののごく一部を引用します。

それは云うまでもなくはだけかゝった着物の裾からこぼれて居る両脚の運動、―ちょうど脛から爪先に至る部分の曲線にあるのです。僕は一体子供の時分から若い女の整った足の形を見ることに、異様な快感を覚える性質の人間でしたから、実は疾うからお富美さんの素足の曲線の見事さに恍惚となって居たのでした。


こう云う美しいものを見せられる度毎に、僕はつくづく、造化の神が個々の人間を造るに方って甚だ不公平であることを感じます。


お富美さんの足のは「生えている」のではなく、「鏤められて居る」のだと云わなければなりません。そうです、お富美さんの足の趾は生まれながらにして一つ一つ宝石を持って居るのです。


その二つの足は、(中略)既に一つの、荘厳な建築物に対するような美観を与えます。


僕は一人の男子として生きて居るよりも、こんな美しい踵となって、お富美さんの足の裏に附くことが出来れば、其の方がどんなに幸福かしれないとさえ思いました。それでなければ、お富美さんの踵に蹈まれる畳になりたいとも思いました。僕の生命とお富美さんの踵と、この世の中で孰方が貴いかと云えば、僕は言下に後者の方が貴いと答えます。お富美さんのの為めなら、僕は喜んで死んで見せます。


お富美さんの左の足と右の足、―こんなに似通った、こんなにも器量の揃った姉と妹が又と二人あるでしょうか?


兎に角その肌の色は、(中略)潤沢と光を含んで、象牙のように白くすべすべとして居ました。いや、実を云うと、象牙にしたってこんな神秘的な色をもっては居ないでしょう。象牙の中に若い女の温かい血を交わせたならば、或はいくらか此れに近い水々しさと神々しさとの打ち交った、不思議な色が出るのかも知れません。


異性の足に対する僕のこう云う心持ち、―美しい女の足さえ見れば、忽ち已み難い憧憬の情を起して、それを神の如くに崇拝しようとする不可思議な心理作用、―この作用は、幼い時分から僕の胸の奥に潜んで居ました。



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「○○(ヒロイン)のためなら喜んで死にます」「○○が死ねと言えば死にます」といった表現を谷崎はよく使います。究極の崇拝・服従の表明ですが、ここではその対象がヒロイン自身からその足に差し替わっています。

宇之吉は、塚越も異性の足の美しさに執着する性癖であり、富美子の足にその究極を見出していることを悟ります。老人と青年は、毎日富美子の足を愛で、その美を語り合う夢のような日々を過ごします。

物語の舞台は、前半は日本橋の塚越家、後半は塚越の体調の悪化により七里ガ浜の別荘に移動しますが、いずれも外界から遮断されたインドアの空間で、塚越、宇之吉、富美子の他にいるのは小間使いだけです。二人の男の欲望を邪魔するものはなく、外の世界とはまったく異なる秩序が構築されていきます。『少年』に描かれた「塙の屋敷」のような快楽の世界、「スクビズムの楽園」が、ここにも誕生します。ちょっと覗いてみましょう。

こゝにいる三人のうち、隠居の年が六十一、僕の年が十九、お富美さんは(中略)十七で一番若いのですが、ものの云いようから判断すると、ちょうどその順序が逆であるかのように思われました。お富美さんの前へ出ると、隠居も僕も等しく子ども扱いにされてしまう気がするのです。


お富美さんの足を眺めては隠居と二人で賛美の言葉を交換しつゝ時を過ごすのです。隠居の病癖をよく呑み込んで居るらしいお富美さんは、退屈なモデルの役を勤めながら、(中略)二人の言葉を聞き流して居ました。モデルと云っても(中略)気違いじみた老人と青年の四つ目から浴びせられる惚れ惚れとした視線(中略)の的となって、崇拝されるためのモデルなのです。


彼は前から密閉した部屋の中でその縁台にお富美さんを腰かけさせ、自分は犬の真似をして彼女の足にじゃれ着いた事があるのだそうです。お富美さんから旦那としての取り扱いを受けるよりも、そう云う真似をする方が遙かに愉快を感ずるのだと、隠居は云いました。


あんまり隠居が苛立って来ると、お富美さんはいつも斯う云って怒鳴りつけました。彼女に怒鳴り付けられると、ちょうど蛞蝓が塩を打っかけられた如く、老人は(中略)大人しくなります。


例の竹の縁台を自分の枕元へ持ち出させて、それへお富美さんを腰かけさせて、僕に犬の真似をさせながら、その光景をじっと眺めて居るのでした。(中略)…あの、お富美さんの足が僕の顔の上を踏んでくれた時の心持ち―あの時僕は、(中略)たしかに幸福だと思いました。


「お富美や、後生だからお前の足で、私の額の上を暫くの間踏んで居ておくれ。」(中略)」するとお富美さんは(中略)芋虫でも踏んづけた時のように苦り切った顔つきをして、(中略)病人の青褪めた顔へ、その柔らかな足の裏を黙って載せてやるのです


それでもお富美さんが、例えば牛乳だとかソップだとか云うようなものを、綿の切れか何かへ湿して、足の趾の股に挟んで、そのまゝ口の端へ持って行ってやると、病人はそれを貪るが如くいつ迄もいつ迄も舐って居ました。



富美子と塚越老人の関係は、母と幼児の関係のようにも見ます。塚越の衰弱が進行するにつれ、赤ん坊に戻っていくようです。『少年』は、始めから無邪気な子供たちの世界でしたが、閉鎖された空間で大人の男(自己)が尊厳を脱ぎ棄て、幼児退行していく展開も、谷崎作品によく表れるパターンです。そこでは対象女性は、幼児にとっての絶対者、に見立てられます。

現実社会で大人として生きていくことは、辛いことばかりです。欲望を抑えて秩序に従い、人目を気にしてプライドを保つ。好きでもない人と付き合い、嫌いでもない人と争う。いつからこうなってしまい、いつまでこんなことが続くのか。欲望のままに生きていた子供時代に戻りたい。誰でもそう思ってしまうことがあると思います。近代化と戦争に明け暮れた谷崎の時代の日本にも、そのように思う人はたくさんいたではないでしょうか。幼児退行は、そんな大人として生きることに疲れた心が求めた願望なのだと私は考えています。

  ―仰ぎ見る、頭上遥かに足の持主―

冒頭から述べているように、マゾヒストがなぜ足に執着するかとえば、身体的下部に当たる足に執着することで遙かに貴い対象女性自身が実感できるからです。二本の足を神とする塚越と宇之吉の「スクビズムの楽園」についても、足の持主富美子自身を意識しなければ、十分に味わったとはいえません。

富美子にとっては、日本橋の塚越家と七里ガ浜の別荘での日々はどのようなものだったのでしょうか。それは、塚越の病状が悪化してからの富美子の態度を見ればわかります。

買い物に行くにしてはお化粧や身なりに恐ろしく念を入れて、ぷいと出て行ってしまうのです。(中略)隠居が死ぬと程なく彼女は少なからぬ遺産を手に入れて、舊俳優のTと結婚しましたが、恐らくあの時分から人目を忍んで其の男に会って居たのでしょう。


搾り取るだけのものは搾り取ってしまったし、(中略)老人の死ぬのを待ち切れずにそろそろ本性を露わして来たのでした。



でました、トリオリズムです!ここで富美子の恋人をちらつかせるとは、谷崎はやはり筋金入りのトリオリストだと思わざるを得ません。

日本橋の塚越家と七里ガ浜の別荘での日々。それは二人の男の夢の楽園でしたが、富美子にとっては、塚越の財産を手に入れ、恋人と新たな生活をするための準備期間に過ぎなかったようです。酷い性悪と考えることもできましょうが、そもそも、富美子の体はすべて富美子が心に決めた恋人に捧げられるべきものなのだから、屍のような老人に足とはいえ触れさせてやって、無上の喜びを与えている富美子はむしろ慈悲深い女性と考えるべきでしょう。塚越の家の財産は、当然の報酬として彼女に与えられなければなりません。

私はこの物語から、次のようなダイナミックな神話をイメージしました。

老人と青年は、白く美しい二本の足を神と崇めています。二人にとってそこは、長年夢見ていた楽園でした。その足の持主は、遥か頭上から楽園を見下ろしています。彼女はただ、使い捨ての足置き台に足を置いていたにすぎませんでしたが、自分の足を熱心に崇めている二人を見て、しばらくそのまま足を置いてやることにしました。彼女の隣には美しい恋人がいて、仲良く睦んでいます。そのうちに彼女は、足の下の世界のことなど忘れてしまい、足置きから足を離してしまいました。老人は夢見心地のままこの世を去りました。青年は、楽園から足が去った後も、その残香を貪りながら、楽園のことを手紙にしたためました。

谷崎の足へ執着は、単に足の美しさを愛でているのではなく、踝より上に君臨する偉大な存在=美しい女性自身へ遥かな憧憬と結びついている典型的なスクビズムであると私は考えています。


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